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活動報告program

第3回 特別研修霊場巡拝 13番大日寺〜17番井戸寺

    阿波一国まいり第二回 さぬき市・・バス・・13番大日寺から17番井戸寺 難易度★ 12.3Km
 参加者 19名:13番(大日寺)=2.3Km=>14番(常楽寺) =0.8Km=>15番(国分寺)=
0.9Km=> 徳島市立考古資料館(昼食)=1.4Km=>16番(観音寺)=2.8Km=>17番(井戸寺)

 

 今日は、「特別研修」ということで、徳島方面へのバスツアーの日。申し込みの数が少ないからと誘われた。で、高松自動車道の「津田の松原SA」で待ち合わせて、バスに乗り込んだ。

 

 今日のツアーは、徳島県の13番札所大日寺から17番の井戸寺までを歩くのだという。歩く距離は7Km程度だというので、歩いてみようかと思った訳だ。ところがバスに乗って渡された資料には、「12.3Km」と書いてある。歩けるのだろうか・・・。

 

 まずは、13番大日寺から・・・。この頃は、みんな、元気いっぱい。冗談がぽんぽんと出ていた。
 開基は弘法大師とされ、縁起によると「大師が森」というこの地で護摩修法をされていたさいに、空中から大日如来が紫雲とともに舞いおり、「この地は霊地なり。心あらば一宇を建立すべし」と告げられた。大師は、さっそく大日如来像を彫造して本尊とし、堂宇を建立し安置したと伝えられている。寺名の由来もこの縁起による。境内は老樹に覆われ、密教寺院の雰囲気を漂わせているが、戦国時代には「天正の兵火」により堂塔はすべてが罹災している。その後、江戸時代の前期に阿波3代目藩主、蜂須賀光隆公により本堂が再建され、諸国に国の総鎮守・一の宮が建立されたときには、その別当寺として同じ境内にあり、管理に当たっていた。

 

 しあわせ観音様にもご挨拶。前の「一宮神社」も散策しておいた。
 ただ、一の宮の本地仏は行基菩薩作の十一面観音像とされており、同じ境内であったため、江戸時代には一の宮神社が札所であり、納経所として参拝されていたようである。このことは真念著『四國邊路道指南』(貞享四年・1687)にも記されている。その後、明治の神仏分離令により神社は独立し、一宮寺は大日寺ともとの寺名に変えたが、もともとこの寺にあった大日如来像は脇仏となり、十一面観音像が本尊として祀られている。 日本人の心には仏と神が融和している。遍路は大師の御心を慕い歩みつづけている。

 

 そこから、14番常楽寺までの遍路道も元気いっぱい。暑さもそんなに苦にならない。四国霊場のなかで唯一、弥勒菩薩を本尊としている。弥勒菩薩は56億7千万年の後まで、衆生の救済を考え続けて出現するといわれる未来仏である。とくに京都・広隆寺の国宝で、片膝を立てて頬を右手でささえ考える半跏思惟の弥勒像は、そのやさしいお顔の表情が美しく、お大師さまとともに光明を授けてくれるような仏といえよう。縁起では、弘法大師が42歳の厄年のころ、この地で真言の秘法を修行していたときに、多くの菩薩を従えて化身した弥勒さまが来迎されたという。大師はすぐに感得し、そばの霊木にその尊像を彫造し、堂宇を建立して本尊にした。この本尊について大師は、御遺告の一節に「吾れ閉眼の後、兜率天に往生し弥勒慈尊の御前に侍すべし。56億余の後、必ず慈尊と御共に下生し、吾が先跡を問うべし…」と触れられていることからも、常楽寺への篤い思いが偲ばれる。

 

 後に、大師の甥・真然僧正が金堂を建て、また高野山の再興で知られる祈親上人によって講堂や三重塔、仁王門などが建立されて、七堂伽藍がそびえる大寺院となった。室町時代には阿波守護大名の祈願所にもなっているが、「天正の兵火」により焼失し灰燼に帰している。だが、江戸時代初期には復興、後期の文化15年(1818)に低地の谷地から石段を約50段のぼった現在地の「流水岩の庭」近くに移っている。奇形な岩盤の断層が重なる「流水岩の庭」。自然の美しさにとけ込む魅力を醸し出す。私は、広報担当ということで、皆さんについて歩くだけ。いや、ついて歩くだけで精一杯。お寺に着けば、真っ先にトイレに駆け込む。

 

 15番国分寺さんは本堂ほかの工事中。この頃になると、気温もぐんぐんと上昇してきた。仏教に篤く帰依した聖武天皇(在位724?49)は、天平13年に国家の安穏や五穀豊穣、政教一致、地方文化の向上などを祈って、勅命により全国68ヶ所に国分寺、国分尼寺を創建した。奈良・東大寺はその総国分寺ともいわれる。縁起によると、阿波國分寺には聖武天皇から釈迦如来の尊像と『大般若経』が納められ、本堂には光明皇后のご位牌厨子を奉祀されたと伝えられている。開基は行基菩薩で、自ら薬師如来を彫造し本尊としている。創建当初は奈良の法隆寺や薬師寺、興福寺と同じ南都の学派に属する法相宗であり、寺領は二町四方で、ここに金堂を中心に七重塔も建つ壮大な七堂伽藍が整っていた。この寺域からは塔の礎石などが発掘されており、徳島県の史跡に指定されている。

 

 だから、仮本堂におまいりしている。みなさん、経本なしでおつとめをしているから立派なものだ。お遍路し慣れている感じ。今回の参加者は19名。弘法大師が弘仁年間(810?24)に四国霊場の開創のため巡教された際に、宗派を真言宗に改めている。その後、「天正の兵火」によって灰燼に帰しており、境内は相当に衰微していた様子が寂本著『四國禮霊場記』(元禄2年=1689)からも知ることができる。寛保元年(1741)に阿波藩郡奉行、速水角五郎によって伽藍が再建されていらい、現在の禅宗・曹洞宗寺院となっている。境内の遺跡から往時の栄華がしのばれる。

 

 15番さんから、ほぼ、北に1Knほど歩いて行って、考古資料館で休憩。そこでお弁当タイム。屋外の東屋で心地よい風を受けての昼食。

 

 その後は各自、館内を見学する。このあたりからは、こうした「銅鐸」がたくさん発見されたのだという。でも、香川県からは一枚も発見されていないのだとか。そのあたりの文化の流れというものが微妙なところ。

 

 11時半に資料館を出て、16番の観音寺まではおよそ1.6Km。この頃からすこしばかり右足のくるぶしあたりが痛み出してきたし、トイレの回数も多くなってきた。
 寺に伝わる宝物に『観音寺縁起』一巻がある。巻末に「享保十乙秋穀旦 南山沙門某甲謹書」の署名があり、享保10年(1725)に高野山の僧が筆写したことがわかる。その冒頭で「南海道阿波国名東郡観音寺邑 光耀山千手院観音寺縁起」と書き出し、観音寺が弘法大師によって創建され、大師自ら千手観音像を彫造して本尊にしたこと、また脇侍像に悪魔を降伏する不動明王像、鎮護国家の毘沙門天像を刻んだことや、徳島藩主の蜂須賀綱矩公が新築・移転に協力したことなどの寺史が詳しく記されている。この『縁起』とは別に、寺伝では聖武天皇(在位724?49)が天平13年、全国68ヶ所に国分寺・国分尼に寺を創建したときに、行基菩薩に命じて勅願道場として建立した由緒ある古刹とされている。弘法大師がこの地を訪ねているのは弘仁7年(816)のころで、本尊像などを彫造して再興し、現在の寺名を定めたとされている。

 

 本日最後の17番井戸寺までは4.1Km、途中のコンビニで水分補給の休憩をとってくれたのだが、右足の痛みは激しくなる一方。昔、崖から飛び降りて骨折した跡である。脂汗を流しながら歩きつめてのゴールイン。
 7世紀後半の白鳳時代は、清新な日本文化が創造された時期で、律令制もようやく芽生えて、阿波の国にも国司がおかれた。この国司に隣接して、天武天皇(在位673?86)が勅願道場として建立したのが井戸寺であり、当時の寺名は「妙照寺」であったという。寺域は広く八町四方、ここに七堂伽藍のほか末寺十二坊を誇る壮大な寺院があり、隆盛を極めたと伝えられている。本尊は、薬師瑠璃光如来を主尊とする七仏の薬師如来坐像で、聖徳太子の作と伝えられ、また、脇仏の日光・月光菩薩像は行基菩薩の彫造と伝えられる。のち弘仁6年(815)に弘法大師がこれらの尊像を拝むために訪れたとき、檜に像高約1.9メートルの十一面観音像を彫って安置されている。この像は、右手に錫杖、左手に蓮華を挿した水瓶をもった姿形で、現在、国の重要文化財に指定されている。大師はまた、この村が水不足や濁り水に悩んでいるのを哀れみ、自らの錫杖で井戸を掘ったところ、一夜にして清水が湧き出した。そこで付近を「井戸村」と名付け、寺名も「井戸寺」に改めたという。

 

 最後は眉山前の「阿波踊り会館」でのお買い物タイム。そこからはバスで帰途につく。




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